1月17日のオンライン岸見一郎講演会は無事終了いたしました。

来月は2月26日の語る会です。詳細はこちらから↓

https://www.kokuchpro.com/event/katarukai12621/

 

2021年の始まりのお話は、哲学者の三木清の引用からのお話が多かったです。

それで、久しぶりに『語られざる哲学』をもう一度読みたくなり、取り出してきました。

その中で、三木清が出版を意図せずに書いたという若いころの文章、語られざる哲学の内容が少し紹介されました。『語られざる哲学』は、角川ソフィア文庫の『人生論ノート』に収録されています。解説を岸見先生が書かれています。

講演会で話された内容からは離れますたが、少し引用しておきます。

懺悔は語られざる哲学である。とはじまるこの著作は、さらに、こう続きます。

講壇で語られ、研究室で論ぜられる哲学が論理の功名と思索の精緻を誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないよう努力する。語られる哲学が多くの人によって読まれ称賛されるのを求めるに反して、語られざる哲学はわずかの人によって本当に同情され理解されることを欲するのである。それゆえに語られざる哲学は頭脳の鋭利を見せつけようとしたり名誉を志したりする人が試みない哲学である。なぜならば、語られざる哲学の本質は鋭さよりも深さにあり功名よりも純粋にあるからである。またそれは名誉心を満足させるどころかかえってそれを否定するところに成立するものであるからである。

 

 

この文を見たとき、語られる哲学と語られざる哲学は、コインの表裏のごとく絡みあって容易に見分けが付きにくい二つの面を見つめていると思いました。

23歳という若い哲学者だからこそ、純粋にこれを見ようとしている。

語られざる哲学も、他者の目を気にしたとたん、語られる哲学に変わりうることを覚悟しているように感じます。

自分でも、それを明確に判別するのは難しいのではないか。

判別しようとしたときはすでに、反転しているのかもしれません。

それほど、純粋に考えるということは難しいことなのではないかと思います。

画家が純粋に自分が感動した絵を描こうとして、誰かが気に入る視点を入れてしまうように。

そのあとに、自らの「体験の貧しさと思索の弱さ」という言葉が繰り返し出てきます。

体験の貧しさとは、まだ若いからとも思えますが、哲学者なら、ずっと持ち続けていく感覚なのではないかとも思います。

なぜなら、この感覚をなくした哲学者は独善的な思索にとどまり、それ以上の深みは失われるからです。

でも、この謙虚さを真に持ち続けるのはさらに難しいでしょう。

謙虚さは簡単に虚栄心にとって代わられる。

三木清がその後もずっとこの気持ちを持ち続けたのかどうかは、私にはわからないです。

ただ、のちの哲学者がこれを引用するとき、それはより純粋なのではないかと思います。

岸見先生がこの『語られざる哲学』を度々引用されるのに出会うとき、この微妙な二つの狭間に佇んで問い続ける哲学者を感じます。

三木清の文を最初に読んだ時には感じなかった余白のようなものが、岸見先生の話を聴いていると見え始める。

ああ、こんなところにもう少し奥に行ける道があったのか。

今まで普通の壁だと思って素通りしようしていたところに何か奥に続く扉のようなものが浮かんできたぞ。

という感じ。

それは、私にとってはまだ煙のように消えてしまいそうな儚い理解ですが、確かにまだ理解できていない何かがそこにあることだけは感じる。

これを感じたとき、三木の言葉「体験の貧しさと思索の弱さ」を思い出します。

私にとって、この余白が見えるのは希望が見えるのと同じです。

まだ理解できていない何かがあるということ。

それは、私にももう少し深く考えられる余地が生まれるということです。

これが見えたとき、気持ち悪さと喜びが混ざったような感情が私に生まれます。

岸見先生はこの日の講演会で、三木清の言葉を引用しながら話された中に、希望と期待を分けるということがありました。

そして、生きるということ。

「希望を捨て去ることができなかった」という言葉から、三木清が強調したかったことは何だったのか。

執着があるから死ねるという言葉も、私にはまだまだ謎が多いです。

 

久しぶりに私なりの岸見先生の講演会の振り返りを書きましたが、とても抽象的になってしまいました。

これも思索が弱いということですね。

講演会では、もっと具体的な事例をもとに話されていましたが、私はこのことが心に残ったことです。

講演会の感想とはとてもいえない内容になってしまいました。