6年前ぐらいにその存在を知り、読み始めたシモーヌ・ヴェイユ。
当時は、彼女の生き方に惹かれて読み始めたのですが、彼女の文章になじめず、しばらく遠のいていました。
それが、最近また気になってきて、『ヴェイユの哲学講義』をもう一度読み始めました。

この本の裏表紙に記載されている紹介文から抜粋すると、

~本書は、若き日のヴェイユがロアンヌ女子高等中学校(リセ)の最高学年哲学級でおこなった講義の記録である。「心理学」から始まり、「精神の発見」「社会学」「倫理学」などを通して、意識、感情、国家、身体などを考察するこの講義は、独創的かつ自由奔放、そして何よりも生徒の人格を発展させようとする姿勢に貫かれている。~

とあります。ここにある女子高等中学校に向けたものと侮るなかれ、この中には、プラトンやデカルト、カント、ベルクソン、スピノザ、ヴァレリーなどの当時の哲学者の言葉が引用され、縦横無尽に論じられています。

私の興味を引くのはこれらの内容が、自己認知力につながる内容だからでしょう。

それは、私たちがいかに錯覚する存在であるかということでもあります。

今読んでいるところで特に私の興味をひいたのは、「知覚における想像の役割」の「かたち」の知覚についてとりあげられたところです。

円を見たとき、私たちの目が実際に見ているのは、二つの視点でみるので、楕円のはずなのに、私たちの網膜のうえに決して楕円を見るのではないということ。

私たちの目は実際に見えたものをすぐさま想像から違う像を結ぶのですね。

シモーヌ・ヴェイユは正常な知覚のなかにはすでに幾何学があるとも言っています。

私たちは、いろんなものを見たとき、目だけでその全容を知覚しているのではなく、他の経験や、その物の目的や、質感(手触りなど)あらゆるものを総動員して想像してその存在を知覚しています。

それでも、それを想像の産物ではなく、目だけで事実として捉えたと思っています。

ここを読んでいる時、あるイメージが浮かびました。それは、真っ暗な部屋で何かわからないものを触りながら、それを説明しているシーンです。

そういう状況で人は思いきり想像を膨らませて触っているものを推測します。最初から何に触っているかわからない状態なら、確信が持てないが、があるいは全くわからない状態のまま推測し続けます。

これは想像していることが自分でも推測に留まっていると気付いている状態ですね。

その想像も、先ほどの目が想像上のものを映し出すことも、想像していることには違いはないでしょう。

それでも、目で見たときにはそれを想像とは思わない。実際に目がそれを見ていると思い込まされます。

これは、話を聴いている時も同じことが起こっていそうです。

相手の話を聴いている時、実際には相手の人と同じことを経験したわけではないので、想像するしかないはずです。

それでも、人は、同じ言葉を使うので、その言葉からイメージできる自分の経験値を思い浮かべ、そこからの想像が始まり、目で円を見ているのと同じぐらいの確からしさで事実だと思い込んでしまうということがよく起こります。

そして、自分の想像でしかないということに気づくまでに、時間がかかるか、全く気付くことができないまま聴き続けてしまいます。

このように、話を聴いていて、目でみるように明らかに感じられることも、実際は暗闇の中で手探りで想像している状態となんら変わらないはずなのです。

知覚は、五感で感じることからでしかできないですが、五感だけでもだめなんですね。

私たちは、想像しなければ、何も知覚できない存在ということです。

ありのままに見るとか、何も判断を加えずに、という風にできるだけ主観が入らない工夫をしますが、そもそも、想像なしでどんなことも知覚できないと知っていることの方が重要でしょう。

ここに本当の自己認識があると思います。

自己認識についてはこれからもずっと扱っていきたいテーマなので、また気づいたことがあれば続きを書いていきたいと思います。