昨日は、岸見先生のNHK文化センター京都教室の心理学講義でした。
岸見先生が訳されたアドラーの著書『性格の心理学』を取り上げた講義です。
NHK文化センターの講座詳細↓
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1208425.html
『性格の心理学』書籍↓
全6回のうち、昨日は5回目でした。
アドラーの著書はなかなか理解することが難しいので、岸見先生が事例やいろんな角度から解説してくださると本で読んだだけの理解とは断然違ってきます。
昨日は、情動全般が取り上げられ、人と人を分離させる情動と、人と人を共に結びつける情動という切り口で、怒り、悲しみ、不安、喜び、同情について詳しい考察のお話がありました。
アドラーの考察は、通常私たちが抱く感覚と全く逆の解釈がされることが多くて本当に目から鱗が落ちる感覚があります。
昨日は、私の中で、特に怒りという感情について、今までにない気づきがありました。
昨日の岸見先生の資料から情動全般のところを少し引用します。
「情動は決して謎めいた理解できない現象ではない。それはまた人間の状況を自分の都合に良いものにするために変化をもたらすという目的を持っている。」と、
情動は、私たちが知らない間にでてきてしまい、その責任はないかのように感じてしまいますが、アドラーは、どんなに激情にかられた場合でも、本当は全て計画的になされているのだといっています。
それが証拠に、「怒り」の項目の中の文章に、怒りにかられた人は、物を壊す時、高価なものを壊すが、自分が本当に大切にしているものは壊さないとあります。
冷静に観察すれば、確かにそういうところはあるなと思いますし、そうなると、全然我を忘れるということにはなっていないことがわかります。
また、「どんな力の追求も、無力感や劣等感に基づいている。」ともあります。
怒りが無力感や劣等感に基づいているとはどんな場面なのでしょう。
怒りを爆発させている人が、自分自身に対して無力感にさいなまれているようには感じにくいです。
もう少し引用すると
「まさに怒りの爆発において、無力感から優越性への目標の高まりの全体がとりわけ明瞭に現るのである。自尊感情を他者を犠牲にして高めるのは安価な手管である。」
自分の無力感は優越性への目標の挫折感ということなのでしょうか。
自尊感情を他者を犠牲にして高めるというのは、とても明瞭な表現だと思います。
怒りの感情がでている時は、相手を責める感情が出ています。自分を正当化する立場で、相手を責め、相手を落とすというもの。アドラーの言葉で、価値低減傾向とも表現されています。
自分の優越性の実現のために、自分自身を高める方法が本当は正当なやり方ですが、それより楽なのは、相手を落として、相対的に自分が上になることを目指すというものです。
怒りはまさにそういうものだということですね。
でも、なにに対しての無力感や劣等感なのでしょう。
ふつう劣等感というと、相手と比べて感じるものという印象がありますが、 ここで言っているのは自分自身への無力感や劣等感です。
どういうことなのか、わからないままでいましたが、講義の後の質疑応答の時に、一人の受講者が、今日まさに怒りが爆発した場面があったと言って、そのことを題材に質問してくれました。
その質問を聴きながら、私も自分自身に最近起こった怒りが爆発した瞬間のことを思い出していました。
岸見先生はそれに対して、それはやはり劣等感なのだと話されました。でも、その時もまだ、なんだか腑に落ちません。
先生がさらにいろんな事例を出されて説明していく中で、ふと私のなかに落とし込まれたものがありました。
それは、言葉で相手にわかってもらえるように説明できる気が持てない時に、怒りの感情を使っているということ。
岸見先生が実際どんな言葉で説明されていたかメモしていないので、正確な表現ができていないかもしれません。
それでも、私は最近起きた怒りの爆発の場面でも、たしかに相手に対してそのような無力感を感じていたと気付きました。
最近、母とのやり取りの中で久しぶりに私の中で怒りの爆発がおきました。
細かいやり取りを書こうと思ったんですが、あまりにも冗長になるのでそれはやめにして。
できるだけ簡略的に言うと、母は日ごろからとても頑ななところがあり、私がいくら言葉を尽くして話しても伝わらないことが多い。
また、私との価値感が大きく違うので、そのことも母が私の言葉を理解することを難しくしています。
さらに、その時は、母が、私が本当は知らないはずのことで母を怒っているというストーリーを作ってしまっていました。
私はそのあまりにも歪曲されたストーリーに、私というものを全く分かっていないという絶望感にも似た感情も手伝って、本当に久しぶりに大きな声で母に抗議したのでした。
でも、今冷静になって考えてみれば、普通の声で抗議できたはずです。
大きな声を出す必要は全くありません。
このことに思い至ったとき、岸見先生が話された言葉が私に落とし込まれました。
確かに、あの時、母に対して、自分が理解してもらえるように話ができる気が全くなかったのです。
岸見先生のいう無力感と劣等感とは、そのような自分自身に向けられたものだったのですね。
このような怒りの理解は私にとって初めてでした。
自分の中で起こっていることに気づいていることは重要です。
それに気づけると、やっとそれに対して対応することができるからです。
今度母と話しをするときは、もっと言葉を尽くしてわかってもらおうとできると思います。
私にとって、母は最高に難しい相手なのですが、今ならきっと克服できる日はくると信じられます。
諦めて、適当に話を合わせるということなく、ちゃんと理解し合えるように私自身ができる限りのことをしなければならないのです。
岸見先生のお話は、どんなに意識が外に向かっていても、全て自分自身にかえってきます。
厳しいですが、私のように傲慢で誰の言うことも聞かなくなった人間にとっては、温かい、最後の砦だと思っています。