私は、基本的に読書が好きな方だと思います。読みたい本はまず買います。
私は本を買うときは、あんまり値段は注意しません。
なので、あとで、こんなに高い本だったのかと驚くことがあります。
それでもそんなに気になりません。
でも、ランチには高いお金を払ってしまうと、とても勿体ないことをした気持ちになってしまいます。
今は自分で仕事をしているので、そんなことはなくなりましたが、結婚して専業主婦になった時、自分の洋服を買うことに罪悪感を感じていました。(夫は全くそんなことに文句を言う人はないです)
実際には、そんなこと感じなくていいと頭ではわかってはいます。でも、どうしてもそんな風に思ってしまう。
そんな時でも、本を買うことには全く罪悪感がありませんでした。
夫は全く本を読まないひとなので私だけしか読まない本です。
家に本がかなり増えていっても、しかも、見るからに高そうな本が並んでいっても、全く夫の目を気にすることはありませんでした。
私はどうしてこんなに本が好きになったんだろう?
最初に私が本好きになるきっかけをつくったのは、私の母方の祖母です。
彼女は明らかに私が本好きになるように仕向けました。
私の母は、父の仕事を手伝っていたので、私の世話はいつも祖母がしてくれていました。
さらに、私は小さいころ、よく中耳炎になったので、しょっちゅう耳鼻科に行かなければなりませんでした。
私を耳鼻科につれていくのは祖母の役割でした。
祖母は、耳鼻科に行く前に私に約束させます。
耳鼻科でおりこうにしていたら、帰りに絵本を買ってあげる。
その頃の私は、別に本が欲しかったわけではありませんが、買ってもらえるならなんでも嬉しかったので、喜んで、耳鼻科の苦しみに耐えました。
祖母は帰りに必ず本屋さんによって、お店の前に出してある回転式の絵本のところに連れていき、このなかの本ならどれでもよいと私に選らばせました。
どれを選んでもいいと言われるのは、本当に嬉しいことでした。
おそらくそれは幼稚園のころだったと思いますが、そんな歳の子供が選んでよい買い物など駄菓子ぐらいです。
絵本はその頃の私にとってとても高価なものでした。
後年、その絵本はとても安いことを知ってびっくりすることになるのですが…(ちょっと考えれば、三日おきぐらいに一冊ずつ本を買うのですから、安いに決まってますね)
とにかく、最初のころは、読むことが好きというより、本を読むことはどうも良いことらしい。という善悪のはかりにかけて考えていました。
私は幼いながら、ちゃんと祖母の魂胆に気づいていて、さらに喜ばせたいという気持ちと、褒められたいという気持ちで祖母の顔色を窺い、そのために実に打算的に本を利用していました。
そして、知らず知らず、まんまと本好きに仕立てあげられていったのでした。
そんな感じだったので、読むことにはまだ喜びを感じていない私でしたが、本のあの形式は大好きでした。
物語が文字で薄い紙に書いてあって、それが綴じて一冊の本になっている、そのとても効率的ともいえる姿。
その中に一つの世界があり、それを開くといつでもその世界に入っていける。そのことが、とても不思議な感覚がして好きだったのです。
中でも、しっかりとした装丁の分厚い本の形が好きでした。
そういうわけなので、できればしっかりした分厚い本が読みたいのですが、それは当時の私には至難の業でした。
そんなに根気がなかったのと、読解力が普通以下だったので、読みかけるけど、途中まで読んでまた最初から読みなおすということを繰り返すしかなく、そのうちそれも飽きてきて最後までよんだことがなかったと思います。
そんな状態なので、最初は本は好きなのに、読むということは苦痛という時代でした。
それでは、実際に読むこと自体が好きになったのはいつだったでしょう。
小学校3年生の夏休みに扁桃腺の手術で一週間入院したことがありました。その時に、一番の仲良しの幼馴染のお母さんが『赤毛のアン』をお見舞いにくれました。その本は本当に面白いと思えた最初の本だったかもしれません。
多分そのころから読むということが楽しくなってきたのだとます。
そして、児童文学から卒業したのは中学2年生ぐらいからでしょうか。
そのころは、かなり背伸びして、外国文学にハマっていきました。科学とか心理学系の新書を読み始めたのもそのころです。
さらに、高校から、日本文学と歴史小説にハマっていきました。
本当に読むことが楽しくなった私の読書の黄金期の到来です。
一番仲良しだった幼馴染の友達は、私の良き読書仲間です。でも、彼女とは、読むジャンルの好みが全然違ったので、主に、一緒に本屋さんに行って、物色する仲間ということになります。
お互い暇な時間が合うと、たいてい一緒に本屋さんに行くことになり、
本屋さんに到着すると、それぞれの好きなジャンルのところでじっくり選ぶ。
お互いかなり時間をかけて選ぶのですが、その間何度かお互いの収穫状況を確認しに行きひとしきり蘊蓄を語り合う。
それぞれ、満足できたなと思えたころに、レジにいって買う。
そして、どちらかの家に行って、それぞれ自分の収穫物を読んで時間をすごす。
彼女とのこのような過ごし方は、ついに私が結婚するまで続くことになります。
結婚して大阪に出てきたので、彼女との本屋巡りは終わりをつげました。
結婚後はまた別の第2次黄金期が到来します。その話はまた今度。
とにかく、私の本好きへの出発は大いに打算的なものだったのです。
祖母のみえみえの魂胆に媚びる孫という出発。
勉強できないけど、本読んでると賢そうに見えるという見栄っ張りな途中経過。
なので、自然と読む本は背伸びすることになります。
でも、背伸びした内容の濃い本をなんとかして読もうとしたからこそ、後々読書の喜びも得られるようになったのだと確信しています。
出発はどうあれ、私はまんまと本の面白さを知り、その喜びを享受できるようになり、それは、人生において大きな友となりました。
今となっては、祖母の計略に感謝しています。
ちなみに、私は自分の息子は本好きにはできませんでした。
私を本好きにしたのは母ではなかったというのがその証明かもしれません。
おばあちゃんと孫という関係性だからよかったのか、私にとって絶妙な環境だったのでしょう。
でも、これもまだわかりませんね。
息子たちの中に、幼いころ、本屋さんで、自分で好きな本を選んだ記憶はきっと残っていると思うので。
本好きに育てるのも方便ですね。
これは私がたどってきた道ですが、世の本好きの数ほど、本好きに致る道があるのでしょうね。