相手の論理を理解する時に、二つの姿勢があると思います。
それは受容的か懐疑的かということ。
どちらが良くてどちらが悪いということはないですね。
最初から懐疑的で、理解しようとしなければ、相手と距離を縮めることは無理でしょうし、距離が縮まらなければいつまで経っても話し合いは平行線ですね。
でも、なんでも気にせずに受け入れていると大切なことに気づかないまま、話しが上滑りしていってしまいます。
結果、だいぶしてから、全く違う意味で受け取っていたということになりかねません。
どちらも適度に大事なんですが、この適度が一番難しいということになります。
先日のブログにご感想をいただき、そこに関連するものとして、プラトンの『カルミデス』を教えていただいたので、読んでみようと思いました。
プラトンは久しぶりです。30代の前半に神谷美恵子さんの影響で、その当時、文庫本で手に入るものは全部読みました。
でも、文庫になっていないものもたくさんあり、『カルミデス』もその一つです。
内容については、また今度考えてみようと思います。
久しぶりに読んで、ちょっと苦い懐かしい感覚を感じました。
それは、最初から騙されないようにということを最優先に注意している感覚です。
もともと、どちらかというと懐疑的に読む方なんですが、プラトンを読む時はそれが特に強くなります。
中に出てくるソクラテスは、ソフィストのような話術だけの人ではないんですが、「もう少し調べてみよう」という彼の論理の進め方にはまり込んで、気がつけばすっかり対話の当事者になった気持ちになっています。
「そうではないか?」と言われると、「それはその通り。」と言わざるを得ない話の運びで、読んでる方も悔しくなってきたり、反発心が沸いたり。自然、反発するための読書になっています。
ちょうど、二つの絵を見比べて間違いを見つける「間違い探しゲーム」をしている時の感覚に似てますね。
こんなふうに読んでしまうと、相手の論理のスキを見つけようと躍起になってしまい、部分的なところにばかり目がいってしまいがちです。そうなると、話の全体を掴めなくなって、本当に伝えようとしている本質的なところも掴めず、意味のない読書になってしまいます。
高校生の時、先生に哲学的な質問をしている友達がいました。
その子は、いつも自分のノートを持っていて、先生の説明が自分の考えに反するものになりそうだと思うと、必死でノートを見て、反論できるところを探しているんですね。
その間、先生の説明を全く聞いておらず、探究というより、反発と主張ばかりに重点があり、話が噛み合ってないので、聞いていても全然面白くなかったことを覚えています。
でも、私もプラトンを読んでいると、私の中でこれが起こり始めるんですね。
今は、それに気づければ、一回騙された気で読もうと思えるので、話が入ってくるようになりました。
要は、騙された気持ちで読んでも、その後騙されっぱなしにしなければいいだけなんですよね。
でも、そのためには、自分への信頼が不可欠。
そう言えば、文字の意味を見ても、懐疑の反対は信頼ですね。