自己回帰性から自己完結の無限のループという言葉が出てきました。
ここでいう自己完結の無限のループといのは、要するに自分の中だけで解決した気になって、実際はなんの解決もしていない。、例えてみれば。井の中の蛙、一個だけ外れて空回りしている歯車のようなものをイメージしていただければと思います。
その中には、パラドックスなんかもありますね。さらにほかにも、鶏がさきか卵が先か。宇宙の外はどうなってるのか?この宇宙の外にもっと大きな世界があって、誰かが動かしているのではないか?とか、未来から過去に技術を教えに来るとか。
結局遠い昔。宇宙には穴の開いた黒い布がかかっていて、その穴からそとの光が漏れているのが星だと信じられていたころから、人間の思考は何も変わっていない。規模が変わっただけで、自分のなかの認識の範囲内でしかイメージすることはできないのですね。
プラトンがティマイオスの中で、繰り返しでてくる「思いなしでしかない」ということば。結局私たちの科学がどんなに発達しても、この域から脱することはできないのでしょう。
自己完結の限界ともいえるかもしれない。
私たちはここから脱出することはできるのだろうか?
もし、できるとしたら、それは外部からのなんらかの刺激に頼るしかないのではないかと思います。
その外部の刺激に、他者の視点がありました。自分の存在を認識するためには、他者が確かに外部から自分を見ているという認識が必要だということ。
他には、重力も外部からの力の最たるものでしょう。私たちは、遍く重力の影響(恩恵)を受けています。それもちょうどよい強さの重力に。
重力がなければ、何者もつなぎとめることができずすべてが離散してしまう。
その重力の影響下で認識することが、自己完結からの脱却の近道なのではないかと思います。
重力の影響下での認識とは、自分の身体の重みを感じたり、身体の感覚(五感)で外部を感知する時ですね。
では、重力の影響下ではない認識とは何かというと、身体の感覚を使わず思考だけで考えている時だと思います。
私たちは、外部の刺激からの認識でなければ、それを正しく知覚することはできない。それを経ずに考えだけで認識しようとするといろんな錯覚が生じる。これはカントもどこかで言っていたのではなかったかと思います。その思考その中でぐるぐるすることが自己完結の無限のループということになります。
他者との対話も外部との接触といえますね。他者との対話がかみ合っていない時、この無限のループにハマっているのですね。
マインドフルネスのトレーニングや座禅の実践などは外部を感知することを利用して、自己認識の範囲を広げたり、クリアにすることに役立っていると思います。
それ以外にも、それを知らず知らずに生活に取り入れて、その効果を出していたことに、過去の哲学者や作曲家があげられます。彼らが散歩などで外部の刺激からインスピレーションを得ていたことは有名ですね。
でも、せっかくそんな風にして考えられたものも、それを受け取るがわが自己完結から脱却していなければ、正しく受け取ることはできないし、そうやって、一度考えだされたものが、次の世代の解釈でゆがめられ、自己完結の世界に逆戻りしていくのでしょう。
そういえば、映画「インターステラー」でも、5次元と3次元をつなげるためには、重力場を利用していました。
それでも、結局最後は、5次元からの情報を伝えているのは自分たちだったということになり、未来の自分たちから過去に教えてそれを開発させるというループに陥っていったように思います。
宇宙の外というのが、私たちには思考の限界なんだろうなと思います。でも、それも、外部からの刺激をもとに考えていけば、いつか見えるときがくるのでしょうか?
マクロな宇宙空間も人同士の関係性も、同じループであることには変わりないんだなあと考えている今日この頃。
たわいない長話にお付き合いいただきありがとうございます。
でも、このことは、引き続き考えていきたいと思います。