自己回帰性の意味を調べてみると、「あるものについて記述する際に、記述しているものとそれ自身への参照が、その記述中にあらわれること」とあります。
映画インターステラーの一場面で、博士の立てた数式をみながら、助手が「時間の仮定を変更せず方程式を解こうとしてきた。この反復法はそれ自身を証明するに過ぎない。再帰的で意味がない」という場面があります。
博士は、「私の人生をかけた研究が意味がない?」といって、席をたっていきます。
こういうことが見つかったとき、この博士がいうように、今までのことが全て無意味になって、振出に戻ったような、無限のループにはまり込んだような感覚がするのではないでしょうか。
自己回帰性はそれに没頭すればするほど見つけにくいのかもしれません。
これは普段、自分で何気なく考えている時にも起こっているように思います。
それは全て自分が思い込んで自己完結している状態でもありますね。
出口のない合わせ鏡の迷路に入り込んでいるような状態。
実際は、それにも気づいてないことが多いでしょう。
自己完結というぐらいだから、そこから脱出するためには、自分以外のものの力を借りるしかないのでしょうね。
有名なデカルトの言葉、「我思うゆえに我あり」というのも、一見そのような性質のものではないかと思ったことがありました。
長井真理さんの目からうろこが落ちるような解説を読むまでは。(長井真理著『内省の構造』岩波書店)
長井真理さんは、そこに他者の視点を入れたのですね。そのことについては、今度詳しく取り上げてみたいと思いますが、
この他者の視点というのは、自分がどう見られているかということではなく。みられている自分だから、初めて確かに存在するという感覚を持てるということです。
自分が存在するためには、他者が見ている事実が必要になるんですね。
これを見たときに、いかに私たちは普段それを見落としているかを考えました。それは、私たちが、自分の存在を実感するためによりどころとしているものを忘れてしまっているということです。
それを忘れて、私たちは自己完結的に物事を考えていることがいかに多いことか。
いや、それを忘れるから自己完結的になるのかもしれません。
自分の存在など、あまりにも当たり前すぎて、普段疑うことなどないと思いますが、
でも、それなしに自分一人で自分の存在を感じられると思っていること自体が本当は錯覚なのかもしれません。
普段忘れている、自分で自分の存在を確かに感じることができる視点を取り戻すということは、自己完結の無限のループに陥らないためにも、大切なことなのかもしれませんね。