昨日の映画「インターステラー」を観て考えたことの続きです。

いろんな意味で、苦しい感情の共感を起こす映画だったなあと思います。

そのなかでも、一番大きく感じたのは、声が届かない苦しさでしょう。

地球を救うために子供と離れて宇宙に旅立った父クーパーは、強い重力の宇宙空間で地球とのコンタクトを受信はできるが、発信はできない状況に陥ります。

さらに、重力が強い星での探索作業をするのに、時差が生じてしまいます。

一時間の作業で、地球では7年が経ってしまうという状況で、さらに思わぬハプニングが起き、命からがら母船に戻ってきた時には、地球との時差が23年もできてしまっていました。

23年分の地球からのビデオメッセージを見るクーパーは、息子の成長を目の当たりにして涙が流れでます。地球を出る前に喧嘩してしまった娘はメッセージを送ってこなかったのですが、たった一回だけ、地球を出る時の父と同じ年になった誕生日にビデオを撮っていました。

23年も便りがないので、息子は父が生きているとは思えず、諦めるとビデオで言います。それを見ながら、こちらから声を返すすべがない状態で任務を進めなければならない。双方のやりきれない気持ちが伝わってきて、観ている方が辛くなってきます。

私のなかで、映画をみながらずっと思い出されていた場面があります。

それは、昔の私の経験です。

携帯電話が今ほど普及してないころ、友達の家に訪ねていく約束で、最寄りの駅に着いたら彼女に電話して、迎えにきてもらうことになっていました。

その駅について、さあ電話をしようと公衆電話の前に行って、電話番号のメモを家に忘れてきたことに気づきまた。

連絡を取る何か方法はないかと必死で考えましたが、どうしても連絡の取りようが無いと気付き、メモを取りにもう一度家に帰る決心をしました。

そこから家まで約1時間ほどかかります。その友達は知り合ってまだ日が浅い友達で、お昼ご飯に彼女の得意なイタリアンを御馳走してもらうというものでした。

家に帰る間、何の連絡も来ないことをどう感じているだろう?お昼ご飯どうしているだろう?と、どこにも心の置き所がない感覚で、気持ちがやきもきしっぱなしでした。

家に着いて、すぐにメモを探し、電話をして謝りました。せっかく食事の用意をしてもらっていたということだったので、もう一度今度はしっかりメモを握りしめて駅に向かいました。

私のこの経験など、些細な事ですが、このどうしても連絡取れない状況は、携帯電話が発達した今はよほどのことがない限り起こることは稀でしょう。

電話などがなかった昔や、戦時の安否には、さらに多かったでしょうね。

それにしても、相手にとって23年も連絡が取れないという状況は察して余りあります。

 

映画の中で、声が届かない状況は、逆の立場にも起こっていました。

それは、何年も前に地球に変わる星を探索に出ていた博士たちからの発信です。

今回は、その博士たちからの信号を頼りに星を見つけに行くというプロジェクトなんですね。

それぞれ別の星に飛んで、人間が住めるかどうかを調べ、移住可能なら信号を発信することになっていて、3つの星からの信号をキャッチしていました。

迎えに行くのも燃料も限られているので、すべてに向かうことはできない状況で、厳しい選択を迫られます。

惑星探索に出た博士たちは、決死の覚悟で出発し、本当に住める星でなければ信号は送らないという取り決めでした。

でも、実際は、信号が来ていた星は、住めないとわかっても博士たちが怖くなって信号を送ってしまっていた星だったんですね。

信号がなんらかの事情で途絶えてしまった方は、本当は住める星で科学的な根拠もあったのに、仲間の恋人という個人的な理由にも邪魔されて、こちらが信じることができなかった。

人間の心理として、信号が来ているものを信じてしまうんですね。

届く声の方を信じてしまうというのは、人間の弱さなのかもしれません。

でも、本当は届かない声の方に真実があった。

これは、日常の場面でもあるのではないでしょうか。

声なき声や、形のないものを信じられない。

コーチングのコンピテンシーの中にも、語られるものと語られないものの両方を聴き取るという能力が求められますが、これが、まさに、この届く声と届かない声に当てはまるでしょう。

語られない声をどうやってキャッチするのか。

それは、洞察だと思います。

そして、洞察とは、相手の立場を誠実さから推し量る視点だと思います。

映画では、それを愛だと言っていました。

そして、愛は観察可能だから数値化できるはずだという言葉もありました。

これは面白いですね。

そして、その数値化とは、量的なものではなく、コンタクトという行動でした。

 

愛は量ではなく、行動なんですね。しかも、伝えようとする。

何を?

それは、自分の全存在をかけて相手に未来を託すということなのかもしれません。

相手が受け取ってくれると信じて。