昨日の議論の続きですが、私は小学校のころから意見を言うのが好きでした。
活発に意見を言うのは勉強がよくできる子がするイメージですが、私は勉強は全然ダメで、授業中はよくわからないので声も小さくて、いつもシュンとしている子供だったと思います。
それが、学級会などで議題がだされ、それについて、みんなで考えるときには俄然元気がでて、発言していました。
自分の考えを発言するときに知識は必要ないというのがよかったのかもしれませんが、特に話の辻褄があっているか、本筋からずれていないかということがいつもきになり、そこがずれてくると、それは違うんじゃないかといって反論したりしていました。
勉強もスポーツもできない私が、全然萎縮することなく発言できたのは、ある意味能天気な奴だったともいえます。
でも、何よりそういう場の雰囲気がとても好きで、黙っていられなかったのでしょう。全校集会でも低学年のくせに挙手して発言していました。今から考えると恥ずかしい、はるか昔の思い出です。
それが最近、私の中で本当に欲求としてあるんだなあと改めて再確認できたことがありました。
それは、3年前にアメリカのワシントンで開かれた、国際コーチング連盟のカンファレンスに参加した時でした。
たくさんのブースが設けられ、世界中から選ばれたセミナーが開催されていて、3日間ぐらい、一日中いろんなセミナーに参加しました。
すべて英語で話されるので、英語が全然できない私は、一緒に参加した先輩コーチに少しずつ訳してもらってやっとついていく感じでしたが、そんな中、私の関心を一番引いたのは、倫理規定を事例で考えるというセミナーでした。
前のホワイトボードに、あるコーチとクライアントの難しい状況の事例が書かれ、 これについてどう思うかを自由に議論するのですが、部屋のあちこちから活発に手が上がり、講師の女性が当てていきます。
本当に様々な解釈や考えが話され、拍手が起こったり、激しいブーイングが起こったりして、部屋の中は熱気に満ちていったのを覚えています。
私は、その時生まれて初めてブーイングを見て驚きました。
本当に「ブー!」と言いながら、机をバンバンたたくのですね。
それでも、ブーイングされた発言者は平気な顔をしているし、講師の女性はどの発言もとても丁寧に受け止めて、そして、どの発言にもとてもニュートラルに対応していました。
その人が作る場が私にとって、とても刺激的で魅力的でした。今でもあの時間を思い出すとなんとも言えない高揚感を感じます。
セミナーには斬新な内容を取り扱った魅力的なものも多かったのですが、私の中では、シンプルに倫理規定を扱ったディスカッション形式のセミナーが最高に心に残りました。
英語で何が話されているのかほとんどわからないのに、こんなにも気分が高揚し心に残っていることから、自分のディスカッション好きをあらためて再認識したのでした。
あんな場が私もつくれたら。
でも、私が感動したのは単にディスカッションが活発だったからではありません。
あの場が、すべての人に平等に開かれていて、どの意見も大切に、優劣をつけることなくニュートラルに受け止められていた。いろんなエネルギーが飛び交っているのに非常に安全に意見を言える場だったのですね。
意見が言えるというのはなんて素晴らしいのだろうと思います。
かのスピノザも、民主主義は問題もあるが、言論の自由は民主主義が一番だったと評価しています。
私は、言論の自由こそ人間の権利だと思います。
それと同時に、安全に意見を言える場をつくる難しさも感じています。