久しぶりに復活したジャーナリング。
以前は2週間で新書版MBノートが詰まるほど書いていました。
ここのところ万年筆を握ることが減り、それと同時にジャーナリングからも遠ざかっていたんですね。
復活には理由があります。
JCLA受講生向けに用意しているグループメンターコーチングを國井あや子コーチにお願いしています。
そこには私も参加させてもらっっており、その中では、一人の人の問いにみんなで答える場面がよくあるのですが、その際に私の中の答えで出てきたのがジャーナリングの習慣だったんですね。
ジャーナリングは私にとってはとても効果のあるものだったのに、しばらくパソコンに打ち込む方向に行ったので遠のいていました。
パソコンと万年筆。この両者は比較には及ばないです。
目的と求める効果が全く違うからです。
ただ、今回ほどそのことを強く感じるためにはしばらく離れている必要はあったのだろうと思いました。
ジャーナリングはMBCCで学んでいる時に、吉田典生さんに教えてもらった。
彼の著書『「手で書くこと」が知性を引き出す』文響社 に詳しくあります。
復活のもう一つの理由としては、最近、ちょっと複雑なことが起きたんですが、どうも思考が一方向のみに向かっているのをやめることができない。
それで久しぶりにペンをとってジャーナリングをしようと思った次第です。
思い出すきっかけとその必要性がある事象が起きないと復活しなというのは、それだけで考えるとやっぱり面倒と感じるものだからでしょう。
何が面倒なのか。
それは、立ち止まることですね。
ジャーナリングはあらためて瞑想と同じでしっかりと一旦止まるという感じがあります。
走りながら考えるということはもちろん大事ですが、本当に考えるためには、その中でも一旦止まることをしないといけないのでしょう。
一旦止まるのがなぜ面倒なのか。
それは再び動き出すのにエネルギーがいることを身体が知っているからかもしれませんね。
車もブレーキだけ踏んでる場合としっかりエンジンを切った時の感覚を思い出してもらえればわかりやすいでしょう。
ブレーキだけだと、そこから足を浮かせれば再び動き出しますが、エンジン私切ってしまうと、もう一度キーを回すところから始めないといけない。(今の車は違うのかな)
でも、ジャーナリングの場合は、そのエンジンも自然に入る感じがあります。これは自動思考とは違います。
そもそも自動思考は立ち止まっていない。
最後に、ジャーナリングで出てきたのは忠誠心というもの。
忠誠心って時代錯誤ですが、先日読んでいた岸見先生の本にどこかの文脈で出てきてとても気になっていた言葉です。
そこでちょっと調べてみました。
そうすると、服従という言葉を使っているものと、それを逆だと言ってるものを見つけました。
私も後者だと思っていたので、私の信望する白川静氏の『字通』で調べてみると
やっぱり、「忠」という字は、心を尽くすことをいうと。
「忠誠」は、真心を尽くす。忠実で誠意がある。とあります。
では「忠実」はと見れば、「まめやか」と。
先にあげた後者の方の説明に
忠義とは、義を尽くす事。
忠誠とは、誠を尽くす事。
忠実とは実を尽くす事であって、絶対的服従を意味していない。
絶対的服従は、むしろ忠誠に反する。
忠誠とは、真心を以て仕える事である。
盲目的服従は、むしろ、忠誠を蔑ろにする。
と。
忠誠とは下のものが上のものに捧げるイメージがありますが、君主こそ国民に持つべきものであるようにも思います。
そう思ってみれば、やはりこれは双方向に持っている必要がありそうです。
『赤毛のアン』の中で、アンが友達のダイアナに「腹心の友」の儀式の中でお互いに忠誠を誓う場面がありました。
アーサー王物語の円卓の騎士たちも同じでしょう。
忠誠心こそ双方向に持つものであり、双方向でなければそれは本当の忠誠心とは言えないのではないかと思います。
忠誠心は強制できないとも書いてありました。
今のイメージではなく、本当の意味での「忠誠心」をもう少し考えてみたいと思っています。