先日、とっても久しぶりに次男からの電話で話しました。
たまにかけてきて会社でのいろんなことを話してくれます。
楽しいことならこちらも嬉しくなるし、悔しかったり辛かったりすることを聴くとこちらも苦しくなります。
今日は苦しくなる方かと思わせて実はスッキリ系の話でした。
でも、話が要領を得ないので、それがはっきりするのは終盤に差し掛かってから。
子供の話を聴くのはスリリングだなあと思います。
母にとっては一番の弱点なんですね。
ひととおり話してスッキリした後は、面白おかしい話となりました。
そこで今日初めてちゃんと理解できたことがありました。
それは、賭け事についての誤解。
次男は小さい頃、電車で競艇の側を通ると、急に目が輝き、あれは何をしているのかと聞いてきたことがあります。その時の興味の示し方が尋常じゃなかったので、夫に「匡貴に賭け事の話しない方がいい」とよく言ってました。(夫は賭け事大好き)
それが、たまたま息子の会社の周りの人が競馬好きが多いという話が出たので、私もその昔話を出したんですね。
それを聞いた息子が言うには、あれは競争してるから反応しただけで、賭け事なんて思わなかったと。
たしかに幼稚園児が知ってるわけないなあ。母の無駄な心配からの大きな思い込みだったということでした。
でも、あの尋常じゃない感じはすごく危険なものを感じさせたんですよね
そうしたら、なんと、夫がよくやってた競馬も、会社の人に聞くまで、単に馬の競走だと思ってたらしいです。
そこに賭け事が絡んでるとは全く知らなかったと。
驚くべき世間知らずでちょっと呆れました。
そういえば、小さい頃から一番好きなことがF1のレースだったっけ。
なるほど、確かに競争だ。
今日は次男のそんな誤解が解けた日。
やっぱり何事も聞いて見なければわからないですね。
岸見先生の新刊『数えないで生きる』の初めの方に、子供を決めつける親の話が出てきますが、次の一節が特に私に響きました。
以下引用
しかし、親子であっても、他者は必ず自分の理解を超えているといっていい。他者を理解するというのは、他者が自分の理解を超えているということを知ることであるといえる。少なくとも、このことを認めることが、他者を知ることの出発点である。
岸見一郎著『数えないで生きる』扶桑社
わかっていたはずですが、昔の勘違いが外れた今日、あらためて思い知りました。
17年越しの潔白の証明ということになります