今朝、オフィスでずっと使っていた電気ケトルが壊れました。

朝、いつものように、到着後軽く掃除をして、多肉植物のお世話をし、いつものようにケトルにお水を入れてスイッチを入れようとすると何かいつもと違う感触がしました。

カチッという音がせずスイッチがオンの方に入りません。

いよいよ壊れたかと思い、がっかりしました。

可愛くて気に入っていたケトルだったのですが、その時のがっかり感はケトルの喪失感ではありません。

100パーセント温かいお茶が飲めないことへのかっがり感でした。

とりあえず、すぐに変わりのケトルをネットで探し、同じメーカーの物で、できるだけ早く配達してもらえそうなのを探しました。

少し違うデザインで少し小さめの、今より少し安いのがありました。

届くのは、最短の物で二日後でした。翌日届くのがないことに二度がっかり。

それでも、仕方がないので、すぐに注文しました。

今のケトルは、オフィスを開設した時に買ったものなので、かれこれ五年は働いてくれたことになります。

うちは、他にお湯を沸かすものがないので、毎日毎日フル活動でした。

五年で壊れるのは、仕方がないのか、それとも私の扱いが荒かったのか。

きっと後者が正しいでしょう。

とにかく、今日と明日の二日間は温かい飲み物を我慢しなければなりません。

しかたなく近くのコンビニでペットボトルのホットのお茶を買ってきました。

温かいのは一瞬で冷め、食事の時も冷たいお茶、それもあまり飲もうと思いません。

一日の仕事が終わったのが夜の9時。

いつもなら、仕事が終わってもそのまま残って、本を読んだり、雑務をしたりします。

そして、いつもかなり遅い時間まで帰ろうとしません。

家には一人で仕事ができるスペースがないので、いつも居心地の良いオフィスにこのまま泊まってしまいたいという欲求に打ち勝って、やっと家路につきます。

そんな私なのに、今日は夕方ぐらいから、早く仕事を終えて家に帰りたいという思いでいっぱいでした。

それもひとえに温かいお茶が飲みたいからです。

これには自分でも驚きでした。

なぜかというと、自分にとって、温かい飲み物がそんなに重要度が高いという意識がなかったからです。

一人で本を読んだり、好きなことができる空間は私にとってかけがえがないものですが、それが温かいお茶に、こんなにもいとも簡単に負けてしまうとは思ってもいませんでした。

冬だからでしょうか?

いいえ、夏でも、ホットのお茶を飲んでいたので、きっと季節は関係ないでしょう。

そういえば、オフィスに入れた電化製品で電気ケトルとコーヒーメーカーはかなり優先順位が高かったです。

みんなから、「冷蔵庫は絶対要るよ」と言われ続けても買わずにここまで来ました。

「電子レンジぐらいあった方がいいよ」とも言われましたが、なくても過ごして来れました。

ケトルは最初からあったし、あることが当たり前すぎて、お湯が沸かせないことを考えたことなど一度もありません。

それほど、空気のように、あって当たり前の存在でした。

なくなって初めてその存在の重要性に気づくというのは、よくあることですよね。

こんなに、知らず知らずのうちに求めていたとは思いもしませんでしたが、こうなると、イギリス人がティータイムをあれほどまでに重要視するのも否定できないですね。

茶道も、わびさびとか、平等とか、おもてなしとかいろんな哲学的な意味もあるのでしょうが、それ以上に、人の欲求に応えるものなのかもしれない。

温かいものを身体に入れることが大切なのか、温かいものを飲むということなのか…。

最近気づいた多肉を通しての生体エネルギーへの渇望と、今日気づいた温かいお茶への渇望。

まだまだ「当たり前にあること」から自分でも気づいていない欲求がありそうですね。

そういえば、木村敏先生の本で、統合失調症の方の症状の一つに、自分を他者と分けられなくなるということが書いてありました。

今、自分が考えたり話したりしていることが、いったい自分で考えたことなのか、他者の考えなのか、その境界がわからなくなるんですね。

私はそれを読んだ時、ものすごい恐怖を感じました。

というより、自分というものが他者と混ざらないということは、一つの能力なのかと思い驚きました。

それほど、自分と他者を分けられるということはあまりにも当たり前のことだったからです。

そういえば、ちいさいころ、自分の中でつぶやいている、この自分は誰なんだろうと気持ち悪く思っていた時期がしばらくありました。

それは、ある日突然出現した感じでした。

いや、出現したのか、もともとあった声にやっと気づいたのか…

声と言っても、耳に外から聞こえる声ではありません。

今も自分の心の中でつぶやいているこの声です。

この声に気づき始めた最初の頃だったのだと思います。

今でも、あの時の気持ち悪さは覚えています。今から思えば、何かあやうい感じもしてきます。

自我ができてくる時の感覚だったのでしょうか。

成長段階の一つの分岐店だったのではないかと思います。

あのぐらいのころにちょっとしたことでバランスを崩すことは誰しも起こりうることでしょう。

蝶の蛹のように、蝶になる前のちょっとしたことで、成虫になれない蛹もたくさんいるでしょう。

成虫になるのが当たり前のように感じられるけれど、本当はどっちがノーマルなのか…

私たちは、外部からの影響のほんの少しだけの加減でどっちに転ぶかわからない、そんな細い糸の上を歩いていることに気づいていないのかもしれません。

 

当たり前にあること、それをなくしてしまった人から学ぶことは多いですね。

私たちも失くしていたかもしれないその存在を。

 

 

画像は、家に帰って、今日初めての温かい紅茶です。