本日は、私が毎月開催しているマイニングオブセブンと呼んでいる活動の日でした。
もともと、実験的に聴くためのワークを試すためにいろんな方にご協力いただこうと思って始めたものですが、今はその段階も過ぎて、固定メンバーで自由なトークの場になっています。自由といっても、私がその時々で考えていることを皆さんにお話しして、そこからいろんな話に飛んでいくという感じです。自分だけで考えいると気付かない視点がもらえたり、話題が発展していくことで思考も広がるだけでなく、さらに深まったり、新しい捉え方ができたりという楽しい時間です。
今日は、その時に一人の方がお話下さったことが、私に大いなる勇気を与えてくれました。
どんなお話かというと、
その方が、最近登山用のジャケットをいくつも同時に買ってしまったという話から始まって、毎朝の散歩を更にたくさん歩くようになったこと。そこだけ聞いていると、単に近況を話している感じなんですが、よくよく話を聴いてみると、それら全てに理由があり、最初に出てきた登山用のジャケットと散歩の効果が一つの繋がりとなって浮かび上がってきました。
もともと、本当に体力がないことを改善するために、朝歩き始めたそうなんですが、最初は5分歩くと息切れがして、それ以上歩けなくなっていたそうです。これではだめだというので、少しずつ少しずつできるところからやろうと、トランポリンを買ってみたり、ラジオ体操をしてみたり、いろいろ試して続けられたということでした。
それが、一か月に30万歩は歩けるようになり、今月は40万歩に挑戦すると話されました。
そのように毎朝歩いておられたある日、ずっと無理だと諦めていた山登りができるかもしれないと思えたということです。山はとても憧れだったけれど、体力のないものが行くと迷惑をかけるだけだと思い、誘われても全て断っていたそうなんですが、それが、体力に自信がでてきたことで、実現可能なものとして、目の前に立ち現れたのですね。本当にずっと諦めていたことだったので、そう思えた時、ものすごく嬉しかったそうです。その方、実際のお歳は聴いてないのですが、おそらく60代以上の女性です。
その、できそうな感じがしてきた時の喜びは、コーチングでもよく起こる場面なので、共感できます。
実際に目標が達成できた時より嬉しいかもしれません。
それは、真っ暗な中に、ぽっと小さな灯りがともる瞬間でしょうか、それとも、霧が晴れたようにパーっと目の前が明るく開ける瞬間でしょうか。どちらにしても、希望というものがいかに生きるエネルギーを与えてくれるかを身をもって知る瞬間でしょう。
私は、その話を聴きながら、自分事で浮かんできたことがありました。
それは、私にとって、やってもやっても先が見えない語学の勉強です。
やってもやってもと言えるほど全然やってないからできないのは当然ですね。
その時、実は私は、語学の習得はやれると思おうとしても、まだどこか諦めているんだなと気づきました。
最初から、コツコツやらないでできるはずもありませんが、根気を続けるのは本当に難しいことです。
先が見えないことをコツコツやり続けるのは、本当は勇気がいることなのですね。
先が見えない霧の中に居続けることになるからです。諦めるというのは、岸見先生の言い方を借りると、霧の中に入らないと決心することです。
自分の微妙な諦めの気分に気づくのは、今日のようなお話を聴くことが大きな助けになることに改めて気づきました。
以前のブログでも書いた、アドラーの2匹の蛙のメタファーを思い出します。
溺れそうになっている蛙も、他の蛙が足をバタバタさせることで、足元がバターになってきていることが見えたら、自分も希望を持ち直して頑張ろうと思えるでしょう。
自分の一歩前を行く人の話はそのような効果があるのですね。
その方が、5分で息切れしてしまう自分から、今の状態になるまで続けられたことは、本当に今できる小さなことの積み重ねです。それも、この半年でそこまでの変化が起こったということなので、毎日のトレーニングがいかに重要か、どんなに小さなことでもやる意味はあるのですね。
そういえば、私も、もっと文章を書いていこう、それも、パソコンで書かないとだめだ!と思った時に、まずキーパンチの練習を始めました。
私は、全くキーパンチができなかったのです。本当に、右手の人差し指で一個一個打つことしかできませんでした。手元を見ずにとても早くキーが打てる人を見ると、本当に羨ましく、自分がとても恥ずかしくて、人前でパソコンの入力をするのが苦痛でした。そんな私が、絶対にマスターすると決心して、ゲーム感覚でできる練習ソフトを手に入れ、毎日何時間も練習するうちに、最初は圏外だったレベルも、半年ほどで一級レベルにまでなれました。
今は、間違いはあるものの、数字も記号も手元を見ずに楽に打てるようになり、こうしてブログを打っていても全くストレスがありません。
そうなると、手の練習はできるのに、語学はなぜできないんだろう?ということになります。
キーパンチも本当に簡単なところからのスタートでした。そして、暇さえあれば、何時間もやってたんですね。
効率的とか、確実とか、そんなことは考えずに、とにかく単語を覚えるところからしないといけないのかもしれませんね。
覚えるということが語学には筋肉に相当するのかもしれません。
最近、思いがけず始まったギリシア語の勉強。
ギリシア語は言葉の中の言葉というぐらい私にとって本当に憧れなのです。
英語もできないのにと思わず、頑張ってみよう。
私の場合、アルファベットを覚えるとことからですね。
キーパンチもできるようになったんだから、きっとできるはずと思って。