『リーダーシップとニューサイエンス』を読んでいると、目に前のカオスをいかに受け入れていくかの重要性を感じます。

それは、いかに外からの刺激を受け入れていくかということでもあります。

当然外からの刺激は内を乱すことになるので、内を安定させたいという欲求がそこに葛藤が起こさせる。

刺激を受け入れず、状態を変えずにそのまま誤魔化して行こうと思っても、必ずどこかで歪みが起こり変化を余儀なくされる。

ある時飽和状態なのか緊張状態なのかが起こり次の状態に移る決断がなされる。

どちらにしても結局変わるなら、刺激を積極的に受け入れる方がいいでしょう。

受け入れずに変わるのは何処かに痛みを生じるから。そこには決断なく変化させられる無力感があります。

自分もフラクタルのような図の一員となって自分には見えないところで美しい図が描かれているなら、今目の前に起こっているカオスも、実はこちらがノーマルなのだと思えないこともない。

外からの刺激自体心地悪いものばかりではないですが、ただ警戒は起こりますね。

警戒とは不安からきていると思いますが、実は次の美しい図を描くためのの選択を促すメッセージなのかもしれない。

実際、今私は、今まであまり経験したことのない巻き込み力を感じています。

私もどちらかというと人を巻き込んでいく方が得意な人間ですが、今私が経験している巻き込まれ方はすごく新しい感じなんですね。

いや、逆に懐かしい方かもしれない。

これとすごく近いものを感じたことがありました。

うちの子供が小さい頃、彼らが初めての相手と関係性を作っていく時の方法に感銘を受けたことが2回あります。

一回目は、長男が3歳ぐらいの頃、いつもはあまり行かない公園に連れて行って遊ばせていたら、もう1人同じぐらいの年の子が遊びにきて、同じ遊具で遊び始めた。

最初は何も関係性はできていなかったんですが、何か相手にコンタクトしようとしているのは感じました。

その遊具は滑り台が2台並行してついているものでした。

長男は相手の子が滑り台に座るのを予想して、同時に滑れるようもう一方の滑り台に上がり、隣に座った瞬間隣の子にニコッと笑いかけたのです。

まさに全てが始まる瞬間でした。

その時カチッと何かがハマって、それまでバラバラに動いていたものが一緒に動き始めた。

私が一緒にその関係性の中にいず、外から見ていたからわかったことです。

その時は単に子供ってすごいなあと思いました。

2回目は次男の、それも3、4歳ぐらいの時です。

お兄ちゃんのサッカーの試合についていかされた次男は、サッカーの試合の間遊ぶ相手がいませんでした。

グランドの奥に体育館があり、その前にママさんバレーについてきた子供たちが集まっています。次男はその側まで行って何か様子を伺っていました。

ちょうど子供たちが遊び道具何かないかと話していて、そこにすかさず次男が「これ使うか?」と自分が持っていた縄跳びを差し出しました。

その瞬間、魚の群れがサッと隊列を変化させるように、それまでいなかった子が1人加わったことで、一瞬にして他の全員の動きも変わる。

新しい関係性ができた瞬間でした。

今これを書いていて気づいたんですが、思い返してみれば、あらゆる新しい関係性はこんなふうに始まっていくんですね。外からのコンタクトがあって始まる。

でもなかなかこんなふうに屈託なく始まることは少ないです。

それは、コンタクトする方も受ける方も、双方向のエネルギーなんですよね。

今私はこの時の屈託ない巻き込みにとても近いものを経験しています。

もしかしたら私が忘れてしまっていたことなのかもしれない。

これは今の自分には難しいです。

でも、これを今の私が経験できれば、この感覚を自分が関係性を広げる時にも発揮できるかもしれません。

そして、このような新しい在り方を受け入れるということは、私の中にまた新しいカオスを生み出すことなんですね。